Osaka Kyoiku University Researcher Information
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研究者業績
基本情報
- 所属
- 大阪教育大学 多文化教育系 教授
- 学位
- (BLANK)(Nagoya University)修士(教育学)(名古屋大学)
- 研究者番号
- 80222800
- J-GLOBAL ID
- 200901059057031665
- researchmap会員ID
- 1000357402
- 外部リンク
大阪教育大学(1990年4月〜)
生駒市教育委員(1期:2014年9月〜、2期:2018年9月、3期:2022年9月〜現在)
経歴
5-
2014年9月 - 現在
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2010年4月 - 現在
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2007年4月 - 2010年3月
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1997年4月 - 2007年3月
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1990年4月 - 1997年3月
学歴
3-
1988年4月 - 1990年3月
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1985年4月 - 1988年3月
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1981年4月 - 1985年3月
委員歴
3-
2022年9月 - 現在
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2018年9月 - 2022年9月
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2014年9月 - 2018年9月
論文
36-
郷土教育研究オンライン 2(3) 1-14 2022年3月
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大阪教育大学紀要 第Ⅳ部門 65(2) 1-10 2017年2月本研究の目的は,能力形成を実現するために有為にはたらいている要因を可能な限り特定し,その作用のメカニズムを検討することで,現代社会における教育のあり方を定義づけ意義ある学校教育を構築しなおすことにある。この問題意識の底にあるものはさまざまな教育問題に対して積極的かつ有効な手立てを見いだし得ていない学校教育への危機感であると言えるかもしれない。本稿では学習教材を子どもの学習を成立させるための経験として位置づけ,諸経験の特徴を踏まえたうえで,経験対象としてのデジタルコンテンツの教材価値を考察する。一般に,教育効果をもたらすものとして,学校教育のみならず子どもの家庭環境や地域社会との関わりなど多様な要素が認識されている。しかし,たとえば社会認識の場面でそれらの要素が子どもの学習の成立にとってどの程度のプラス効果をもたらし或いは逆にマイナス効果をもたらすのか,という点について包括的に緻密な検証が行われているわけではない。そもそも子どもの社会認識を形成するために学校教育のみでは十分でないことは言うまでもないが,社会認識の形成において学校教育がどの程度の役割を果たすべきなのか,どの程度の役割を果たし得ているのか,どのような部分が現行の学校教育から欠落しているかということが解明されているわけではないのである。それは例えば,社会学の守備範囲だったり,心理学の対象であったり,また教育行政の問題であったり,教育外の要因であったりするという理由にもよるが,学問的に何かが解明されても問題の解決や有効な方策の実現がただちに学校教育に導入できるわけではないという現実問題もある。近年人口に膾炙しているトピックで言えば,世帯所得と子どもの学力に相関関係があると分かることと,世帯所得の如何を問わず子どもの最大限の学力形成を実現することとの間にはいくつもの範疇にわたって多くの段階があって,それらをひとまとめにして一足飛びに解決することはできないのである。そのような制限があるとは言え,たとえ教育学的な要因によるものでなくとも子どもの能力形成に影響を及ぼすであろう諸要素を究明し,排除することが望ましい要素を特定し,あるいは積極的に提供したり強化したりすることが望ましい要素を特定することが,価値ある教育の構築にとって有効であることは言を俟たない。世帯所得と子どもの学力との相関関係1)において,たとえば子どもが獲得しうる経験の多様性や個々の経験の性質などが学力に影響を与えているのではないかと考えられているが,逆に言えば,学校教育が子どもに欠落している経験を補うことで子どもの所期の環境因子による学力差を解消する方向のアプローチができるということになる。そのアプローチは可能性があるからおこなった方が良いという性格のものではなく,公教育が担うべき責務の範疇に入るのではないだろうか。さて,本稿は能力形成諸ファクターの構造と作用なる研究アプローチの第I報としている。より広範な文脈において能力形成諸ファクターの中に子どもの経験が位置づけられることは間違いないが,学校教育において子どもに提供できる「経験」とは何であろうか。それは具体的には,教科書に記載されているような情報であったり,子どもが直接足を運んで得ることができる感覚であったりするわけだが,それらはすべて学習に関わる「経験」なのである。昭和時代の子どもにとっては当然であった経験は,現代社会において成長する子どもにとっての当然でなくなりつつあり,教育活動において何らかの対応が必要となっている。その代わり,子どもたちの環境を無限の情報が取り巻いている。無限の情報に子どもたちが接触できる環境は20世紀末から作られはじめ,とくにここ数年は加速度的に進化している状態にある。子どもたちが事物や事象に直接的に対峙した経験から必要なものを獲得できにくくなっている現在に求められるのは,情報環境の有効利用の観点から「経験対象としてのデジタルコンテンツの教材価値」を検討することではあるまいか。The purposes of this studies are as follows. First of all, identify as much as possible the factors that are promising to working in order to achieve the ability formation. And in the second, clarify the mechanism of action of those factors. And the ultimate goal is the definition the educational philosophy of modern society, it is to propose the idea to build an effective school education. Consciousness above-mentioned problems, is caused by a sense of crisis to the school education. Because current school education do not find the most suitable solution for a variety of educational issues. In this paper, locating first the learning materials as the experience of the order to establish the children's learning. And referring to the difference of the feature between the indirect experiences and the direct experiences. And to consideration of the value of the digital contents as some of the experiences. These are necessary considerations in order to clarify educational use of ICT which occupies an important position in modern society.
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大阪教育大学紀要 第Ⅳ部門 64(1) 23-32 2015年9月本稿の目的は,拡張された環境における生活者たる子どもたちが,拡張された環境において成立させる経験をもとにして学習する際に,経験範囲や経験対象ばかりではなく,子どもたちが獲得する経験の密度が重要であることを明らかにすることである。本稿においては次の二つの前提に立っている。第一に,子どもの経験は均質ではなく,環境や主体の状況によってその密度が異なるという前提である。第二に,子どもの経験対象となる環境は一定範囲で一定時間(学習単元の開始時と終了時においてもそうである)不変であるのではなくて,変成したり拡張したりするものであるという前提である。一義的には,子どもが日常生活を送り,あるいは子どもが日常的な学習活動を送る生活空間が,まず子どもの環境となる。その環境において,子どもは日常的に経験を積み重ねていく。この日常的な経験を提供する機会,もしくは空間が,筆者の言うところの郷土である。平成24年度より筆者は,郷土という存在を子どもが日常生活を営む生活空間と位置づけた上で,その郷土に所在しあるいは郷土において発生する諸事物・諸現象を教材として取り上げ,それら郷土教材の教育的機能に着目し,その教育的機能を最大限に発揮しうる郷土教育モデルを構築し提案する研究に取り組んでいる。本研究は,いわゆる教科学習の枠内に限定されたり,教科教育を副次的に支援するものと位置づけられたりするものではない。もっと広義に,子どもの成長に関わる一切の教育現象を包括的に考察しうる教育機能の契機が郷土に存在し,郷土教育を全体として子どもの人間形成機能を担うものとして位置づけたアプローチをおこないたいと考えている。最終的には,郷土に固有な教材の発見もしくは開発と,その主教材に関わって生じる学習活動を,個々の児童の特性を考慮した上で学習単元として構想することによって,授業のモデルプランを提案することに至ると位置づけている。授業の構想は具体的事例によって異なるばかりではなく,学習主体の条件によって経験の密度が異なるという考え方を採用するため,郷土教育によって何が学べるのかということではなく,郷土教育はいかに取り運ぶことができるのか,いかに学ぶことができるのかという方法的アプローチに重点を置きたいと考えている。A purpose of this report is to make clear that experience density is importat to the growth of children. Experience density is important to the learning of children as well as an experience range and an experience object. Primarily the experience of the child is not homogeneous, and density changes in the situation of environment and the main constituent. Second the environment of the child performs anamorphism not immutability and is expanded. At first there is everyday life space in the environment for children. Children get experience in environment. The environment contains all educational opportunities about growth of the child. In this report, the environment of children places it as a thing taking the human being formation of the child as the entirety. I excavate the teaching materials from the environment that is familiar to children and envision learning activity to be concerned with the main teaching materials and exhibit the model of the unit of study that considered the personality of children. Because density of the experience varies according to the condition of the child, I perform the approach that put an important point on the side called the method of the education than contents of the education.
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大阪教育大学紀要 第Ⅳ部門 63(01) 1-10 2014年9月本研究の最終目的は「『郷土教育の現代化』をめざした郷土教育モデルの構築」であり,郷土教育モデルの構築にとって必要な諸ファクターを見いだし,研究テーマをそれらファクターによって焦点化して記述し,それらファクターがいかに機能するかを解明することは研究の一段階である。これまでは主として学校教育における「授業」のレベルで郷土教育を考察してきたが,それ以前の子どもの人間形成空間として「自己」や「家庭」の考察を省くことはできない。本稿においては「家庭」が郷土教育にとってどのような意義を持つのか,また家庭教育が果たす役割は何かを明らかにすることとする。筆者は身近な地域に存在しあるいは生起するあらゆる事物や事象が学習材となり得るという仮説を持っており,さらに日常生活におけるあらゆる経験が教育的意義を持つと考えている。成長期の子どもにとって学習と無縁の経験はないのである。この経験の特定の側面を評価し,サポートするタイミングを見計らうことは家庭や学校における指導者の役割である。本稿では日常生活における2つの局面において,経験の教育的意義を考察した。一つは奈良市界隈の寺社への子どもの興味関心から生じた寺巡りが表現を伴った活動として認知された事例である。この対象は奈良市近郊の児童にとっては地域学習に位置づけられるものであり,小学校中学年の地域史の学習に位置づけられ,小学校高学年以上の子どもたちにとっては日本史学習あるいは日本古代史もしくは考古学の対象となり得るものだからである。学習者の発達段階に応じて必要な相貌を見せてくれる学習材というものは実に貴重である。その対象を学ぶ児童の活動や表現物を分析することによって,身近な地域の歴史を学ぶ際に獲得可能な諸知識と諸能力,諸態度を明らかにすることとしたい。二つ目は子どもが日常生活の中で直面した切実な問題に対応すべく調べ,考え,考察する事例である。教科学習ではなかなか機会を得にくい「いのち」に関わる経験を取り上げた。筆者が研究仮説として考えていることは,学習主体にとって身近な地域から学習材を見いだし身近な地域で学習活動を実現することが,個性的な学びを保証するのみでなく地域的な特殊の学習が個別具体の学習にとどまらず諸領域の学習において普遍的な有効性をもつものであるという見解である。身近な地域にある事象や事物を対象とした学習は直接的かつ具体的であり,現代の子どもが日常的に得ている間接的な経験とは質が異なると筆者は考える。ペーパー上に記述可能な「知識」なるものは間接的な経験のみによって獲得されうるものであろう。その中には多数の事項のみではなく広く知られているような「定型的な論理」すら含まれる。記憶の対象として「論理」が意識されるようになると学習主体にとって価値ある学びは実現されなくなる。社会的な通説を反復記述するだけの人材を育てるだけでは教育の社会的意義も希薄にならざるを得ないであろう。本来は,学習者にとって身近な空間における活動が深化してのち,空間的・時間的に拡大され,対象を観察しあるいは対象を考察し,さらには観察内容・考察内容を言語表現する活動のプロセスの中に多様な教育的契機が存在していると考えている。一般的・普遍的な内容の学習はその発展の過程において実現するものであろう。本稿では,特殊の事例に関わる学習活動において見いだされた教育的諸契機が,より普遍的な教育モデルとして提案可能かどうかを提案するための検証評価をおこなっている。A construction by using only a ruler without scale and a compass is very interesting. There have been a lot of construction problems from ancient Greece era. In 1796, C. F. Gauss discovered how to construct a regular heptadecagon. His idea had joined to the Galois theory. Now, almost books introduce the construction of a regular heptadecagon by using the Galois theory. In this paper, we study how to construct a regular heptadecagon without using the word "Galois theory".
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大阪教育大学紀要 第Ⅴ部門 60(2) 75-86 2012年2月本研究は,子どもの日常生活空間における人間形成諸要因の抽出,人間形成諸要因の関連構造の解明と人間形成機能の構造的記述を目的とするものである。研究を遂行するために,日常生活空間に顕在する事物や事象,またそれら事物や事象と子どもとの間に成立する関係など多様な側面からの考察が必要である。本稿では事例の一つとして,一児童が東大寺や行基という対象を追究する過程を紹介している。こうした事例の考察を集積し,分類・比較等の検証を行うことを通して,郷土教材は具体的にその現代的価値が再検討され,その中に21世紀以降の教育において望まれる要因を見いだすことが可能になると思われる。This study puts next in the field of vision and is intended to clarify the cultivation value of the native district teaching materials.1)Extraction of human being formation factors in the everyday life space of the child.2)Elucidation of the structure of human being formation factors concerned.3)Structural description of the human being formation function of factors. At first it is necessary for next to be considered to achieve the purpose mentioned above.1)Things and phenomenon existing in the everyday life space.2)Association with those things and phenomena and children.3)Educational support for the learning of the child. This paper introduces an example to investigate things in the life space that a child is imminent as one of the approach. A child is interested in a person named "Gyoki" as the starting point in "Todaiji Temple" and develops original learning. Target modern value called "Kyodo" can be reevaluated by the accumulation of such examples is classified and being weighed.
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大阪教育大学紀要 第Ⅳ部門 57(2) 15-26 2009年2月本稿が目的とするのは社会的環境が子どもの成長にとって果たす機能を明確にし,教育改善の取り組みの実効性を確保し次なる段階へと発展させるために必要な「環境影響評価」の視点を導入することの意義とその課題を明らかにすることである。拙稿「学力の構造解明への郷土教育論的アプローチ(2)-包括的教育システムの構築による学校教育システムの再活性化-」では,平成20年3月に告示された学習指導要領改訂プロセスの考察を踏まえて,子どもたちの学力の向上や生きる力の育成のために,学習指導要領そのもの以外に改善されなければならない社会的な諸因子に着目し,その中でも特に子どもの成長を阻害する諸因子をいくつか指摘するとともに,学校教育システムのが潤滑に機能することを促進するために,社会のいかなる因子ないしは側面がいかなる形で学校教育システムにプラス・マイナスに作用するのか,あるいはいかなる因子が学校教育の運用を支援しもしくは阻害するのかを考察した。そのことを通して,新学習指導要領の下で「確かな学力」及び「生きる力」の育成を学校教育においてより効果的に実現するための「包括的教育システム」という枠組みを提案した。しかし,包括的教育システムの構築のためには,まず子どもの発達に関わっていかなる因子がいかなる形でどこに作用することが想定されるのか,また教育に関わるさまざまな改善措置がどのいかなる目的を持って設計され,その措置にいかなる効果が期待できるのかを予め想定しておく必要があると考えるのである。教育に関わる措置を講ずる際に予めその効果や限界性及び課題や弊害を想定し,考え得る限りにおける最善の措置を選択・検討する機会を設けること,本稿ではそれを環境影響評価のアプローチになぞらえて考察しようとしたものである。環境影響評価は厳密に測定・制御が可能な閉鎖的システムを対象としたものではなく,評価者が想定した範囲の外から何らかの因子が作用することもありうるものであるし,想定範囲の内でも予測していなかった因子が存在し作用することが十分考えられる。その意味で完全なる環境影響評価は困難である。包括的教育システムを想定し,そこで生じる現象を予測評価することは,環境影響評価の困難さに類する特質を持っていると考えられるのである。それゆえにあえてここで「環境影響評価」という完全とは言い難いアプローチを検討する価値があると考えるのである。This report shows approach aiming at the construction of the comprehensive education system. The construction of the comprehensive education system is not the thing which can come out easily. A step to seem to be the best can end in failure. It is required to predict an effect and the evil of the educational step beforehand. Therefore elucidation of the identification of many factors and the allied structure is important. Educational environmental accurate recognition and the fair evaluation of the educational step will lead success. First of all it is important that the direct social various reasons child who has an influence on the development of the child indirectly is extracted closely. And second it should be examined as possible closely what kind of influence it is. Repetition and an omission occur when they extract many factors at random. Therefore it is desirable to step on the following step on extracting many factors. 1. Classify the many factors which a child experiences directly in some domains. 2. Every each domain, extract main many factors and peripheral many factors. 3. Examine the allied structure of many factors extracted every each domain. 4. Examine the super areal possibility of many factors concerned. 5. Examine the right or wrong of the control of many factors and necessity of the control based on an educational point of view. Allied structure named the perfection of all factors affecting a child should be elucidated. However, it is only extremely limited relevance of the extremely limited factor that a human being can grasp it. As for the step taken on a limited premise, the effect is assumed restrictively. The action that an invisible factor gives is impossible of an assumption. But, it is with the factor that a certain many factors, many factors which are not acted on in the human being society, many factors which I am affected by the human being society, and are changing, factor of all of them have some kind of influences on growth of children in human being society. The investigation of all many factors is required. It is natural that many factors of human being society obstructing growth of children must be controlled. Furthermore, the many factors changing into a bad course must be controlled by the hand of the human being by the many genes which I am affected by existence of the human being society, and human being society brought.You should be based on the following thing on the premise that you are minimum. 1. Assume it which environmental various reasons child of the child an educational step (the control of the environmental various reasons child) acts for how. 2. Being calculated so that an educational step (the control of the environmental various reasons child) shows fare-thee-well. 3. Furthermore, reduce the evil that an educational step brings. This report suggests an educational step to rise in such a stance as "a social environmental assessment from an educational point of view". Even if a new course of study has begun to be managed, with that alone the situation over the education is not improved. Build a comprehensive education system on the basis of the organic allied structure of social many factors over the school education. It is the effective means to bring the effect of the course of study that it is new.
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大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 57(1) 1-14 2008年9月子どもの学力向上をめざした学習指導要領の改訂が行われているさなかであるが,新しい学習指導要領が運用され始めたとしてもそれだけで,教育をめぐる状況が改善するわけではない。新しい学習指導要領が実効性ある教育的機能を果たすためには,学校教育をめぐる社会的な諸要因の有機的関連構造を踏まえた包括的教育システムの検討が不可欠であると考えるのである。 昨今の一連の教育改革への取り組みは,学習指導要領の改訂に加え,学校教育に携わる教員の免許を更新制1)とすることで,教育の質を高めようとするものと見受けられる。この教育改革が目指すものに関しての異論は持たないが,教育機能の担い手としての学校教育に向けられている「過剰な期待と責任」には危惧を持たざるを得ない。教員の負担が増すというような一面的な懸念ではなく,学校教育のみにおいて教育改革の実効性を確保することが困難であるという前提に立つ問題認識である。 学校教育は子どもの教育に対して完全に責任を負うことはできないし,完全に責任を負うべきものではない。しかしこれまで,子どもに関する様々な問題はすべて学校教育の制度的な問題あるいは学校教育の運用上の問題に矮小化され,その都度学校教育へのパッチワーク的な対症療法が試みられるという試行錯誤が繰り返されているばかりである。子どもの人間形成に対する学校や教師の影響力や実質的権限の減衰が継続する現代社会において,社会環境に因する諸問題の解決を学校教育のシステムに委ねても,効果を期待できないばかりか,関係者の疲弊を重ねるに過ぎない。学校教育というシステム自体が社会の包括的教育システムの文脈に置かれているからである。このままでは,学校教育の機能不全は悪化するばかりであろう。 学校というシステムには他のシステムと同様に,為し得ることと為し得ないことがある。その効果の範囲と限界を踏まえた上で,人間社会全体の教育的機能の回復ないしは強化のために,改革されるべき制度,組織,さらには社会的環境を考察していかなければならないと考えるのである。 本稿ではこのたびの学習指導要領改訂の時期にあって,子どもたちの学力の向上や生きる力の育成のために,学習指導要領そのもの以外に,改善されなければならない社会的な諸要因に着目し,その中でも特に子どもの成長を阻害する諸要因をいくつか明示するとともに,学校教育システムの潤滑な機能のために,社会のどのような要因ないしは側面がどのように学校教育システムを支援しうるのかを考察することを通して,新学習指導要領の下で「確かな学力」及び「生きる力」の育成を効果的に実現するための「包括的教育システム」を示そうとしたものである。The revision of the course of study aiming at the scholastic ability improvement of the child is performed, and, however, the situation over the education does not improve it only by the use of a new course of study. Next is indispensable, and it stands on the organic connection structure of social many factors over the school education so that a new course of study serves as an effective educational function, and it is to examine an education system of the inclusion. The current educational reform hopes that quality of the education rises by revision of the course of study and teaching certificate update system. However, I cannot but have anxiety for ""excessive expectation and responsibility"" applied to school education as the leading figure of the education function. It is a problem that the burdens on teacher increase, but it has difficulty with school education to realize educational reform alone; it seems. It is impossible, and ... which school education owes a full responsibility to for the education of the child is not a right ideal method. However, it is said that all the educational many problems are responsible for school education till now, and there did not need to be the thing that essential improvement is planned besides a temporary symptomatic treatment. In the modern society where the substantial authority of a school and the teacher was reduced, I cannot solve many problems due to social environment only by a school education system. The reason is because school education system itself is contained by a comprehensive education system. In this situation the malfunction of the school education will turn worse. There are what I can do like other systems in a system called the school and the thing that I cannot do. I consider the field of the school education and should regard measures as the recovery of the social educational function for reinforcement. In this papert, I tried for finding the social many factors that must be improved for upbringing of "the power to live" of children. And I showed "an education system of the inclusion" to realize upbringing of "positive scholastic ability" and "the power to live" effectively.
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大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 56(1) 1-13 2008年2月「学力低下」は今や国民の一大関心事になっている。しかし,もっぱら問題とされているのは学齢期の子どもの学力であって,成人の諸能力についてはほとんどといっていいほど問題にされていない。大学生を含む成人の諸能力はおそらく半世紀前に比べて大幅に欠落している部分が多いはずである。社会的なモラル低下,社会的無関心,あるいはアイデンティティの喪失などに加えて,有名企業や公的機関の失態も目に余る状況である。子どもの学力低下を憂うるのであれば,成人の学力はどうであるのか。これは子どもを対象にした調査ほど明確な数値が出ていないのであるが,子どもの学力調査の対象となっているような分野に関する成人の知識・能力は子どものそれに比べて著しく劣っており,学力の剥離もまた重要な問題であるのである。さらに言えば,20歳を過ぎた成人にとって全く不要な諸能力を子どもに求めることそのものの是非についても検証の必要があるであろう。近々改訂が予定されている学習指導要領に関して中央教育審議会の基本方針が報じられた。本稿執筆時点ではまだ公式発表を見ることができないが,8月17日の読売新聞1)2記事によれば現行学習指導要領の方針を大きく転換し,「確かな学力の向上」を目指す方針に変更されると言うことである。現行学習指導要領が学校週5日制を前提として学習内容の大幅な削減をおこなったのは平成10年のことである。学習指導要領の改訂前の議論で基本方針は国民の知るところとなっていたため,学力低下への危惧が盛んに報じられていた。しかしながら学校週5日制は必然的に授業時数の削減を要求せざるを得ず,改訂は「ゆとり教育」を謳わざるを得なかったというのが現実であろう。学習指導要領の内容削減が行われても直ちにそれが学力低下をもたらすものではないこと,学力とは難しいことをたくさん教え込むことによって向上するものではないことなどを十分に説得できる改訂ではなかったことが問題であったのかも知れない。それ以降,国際学力比較調査において我が国の子どもたちの学力低下が数量的に明示されたことで,子どもの学力低下というイメージが既成事実化し,学力向上を求める意見がさらに高まることとなった。学習指導要領の内容削減が学力低下をもたらすという懸念が,因果関係はともかくとして結果部分において現実のものとなった以上,次の学習指導要領が学力向上に軸足を置いた改訂となることは大方予想されていたことである。本稿は,学習指導要領の難易度が子どもの学力向上と単純な相関関係にあることを否定する立場をとるものである。実際,かつての昭和43年版学習指導要領の改訂によって教育内容が高度化したときにもたらされたのは,学力の向上ではなくして「落ちこぼれ」といわれる子どもたちの多発と教育荒廃の発症という現実であった。昭和52年版学習指導要領によってゆとりが重視されることとなったが,その改訂によって教育の諸問題が解決を見ることはなかった。このことは学習指導要領の基本方針の転回によって無前提的に学力向上や豊かな人間性が実現するものではないことを示す重要な教訓として受け止めるべきではなかろうか。本稿では,学力の向上という教育の課題を重視する立場をとりつつも,学習指導要領の改訂のみではそれが実現困難であることを論じ,子どもたちの学力向上を実現するために他に何が求められるのか。学習指導要領の改訂にあわせて改革されるべき諸問題を明らかにし,学力向上を実現するための効果的な処方を提言しようとするものである。"The decline in academic ability" becomes the big subject of concern of the nation now. However, it is scholastic ability of the children of the school age to be considered to be a problem wholly, and it is not done in many problems about the many ability of the adult. Perhaps I compare the many ability of the adult including the university student half a century ago and largely lack. As well as social morals fall, social indifference or the loss of the identity, a prominent firm and the blunder of the public engine occur frequently. I compare knowledge / the ability of the adult about the field becoming the object of the scholastic ability investigation of the child with it of the child and I am remarkable and am inferior. The detachment of the scholastic ability of the adult is a problem important again. Furthermore, it will need the inspection about the right or wrong of the thing to demand totally unnecessary many ability from a child for the adult who was over 20 years old if it says. The basic policy of the conference of the Central Council of Education was reported about a course of study that revision was planned soon. I switch the policy of the existing course of study greatly, and it is to say that I am going to aim at ""the improvement of positive scholastic ability"", and it is changed. Learning contents are largely reduced by the existing course of study assuming the five-day school week. Through the revision discussion of the course of study, it is a well-known fact that anxiety to the decline in academic ability was proposed. However, the five-day school week needed the reduction of the number of lesson hours, and the course of study could not but appeal to you for ""education at ease"". I did thing that it was not the thing which the contents reduction of the course of study brought decline in academic ability promptly then, and it should have been necessary to prove that it was not the thing which improved by what a difficult thing instilled a lot with the scholastic ability enough. However, I did not make the efforts. Thereafter, decline in academic ability of the children of our country was stated clearly in an international scholastic ability competitive review quantitatively. The image called the decline in academic ability of the Japanese child becomes an established fact, and an opinion in search of scholastic ability improvement will rise more thereby. By this report, the degree of difficulty of the course of study denies the scholastic ability improvement of the child and a thing in a simple correlation. It was reality called the onset of the mass production of ""the dropout"" and the education dilapidation that it was brought by the modernization of past education contents. This is an important lesson to show that the revision of the course of study that attached great importance to scholastic ability does not bring scholastic ability improvement for no premise. I discuss that scholastic ability improvement has difficulty with realization only by an action of the revision of the course of study and the nature improvement of the teacher and, by this report, clarify a thing becoming basic of the scholastic ability improvement. I decide to investigate feasibility of the scholastic ability improvement through necessary thing and considering the many problems that I can put it together in the revision of the course of study, and should be reformed to realize scholastic ability improvement of children thereby.
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大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 55(2) 1-13 2007年9月第2次世界大戦終結後の占領期に形作られた法体系に関しては,戦後の半世紀以上にわたりその是非が議論されてきた。日本国憲法の制定から,社会科という一教科成立のレベルに至るまで,その形成プロセスに対する異論がある一方で,敗戦国としての自制を維持するのに効果的であるという論調も強かった。今般の国会勢力図は長年の懸案であったところの改憲問題,教育基本法改正問題をめぐる状況に変化をもたらし,連立与党の意向によって戦後の法制度を大きく変えることが可能になったのである。改憲手続きに関しては連立与党内でも意見の一致を見ないことから,すぐに実現することはないと思われるが,憲法改正に比して非常にハードルの低い教育基本法改正は,国会審議のプロセスに載せられ,改正が実現する運びとなったのである。2006年に教育基本法改正手続きが現実味を帯びてくると,主として左派勢力から教育基本法改正に対する強い反対意見が表明されるようになった。その主たる反対根拠は戦時下への回帰に対する危惧であり,「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンが教育基本法改正反対論者の旗印となった。一方政府与党内では,日本国内の治安の悪化とりわけ子どもの人格形成に関する危機感や,学力低下に対する危機感も高まっており,与党が国会で圧倒的多数を占めるこの時期の改正に非常に意欲的であると見られたのであった。本稿では,教育基本法の改正を取り上げて考察するものであるが,それはイデオロギーや法的な意味を解釈することに主眼を置くものではない。筆者が専攻している教科教育の授業実践においてさらには学校教育における指導において,旧来の教育基本法と新しい教育基本法の理念が現実にはどのような形で相違を生じさせるのかというレベルでこのたびの事態を考察したいのである。そもそも,子どもたちをどのような人間として育てるかという「善さ」の問題は法律レベルで十分に対応可能なものではないと考える。もっとも重要であるのは,法体系において理念として語られる「善さ」が真に学校現場の教育実践と結びついて機能するかどうかが問題なのである。子どもの成長に影響を与えるのは,教育基本法やその教育基本法の下で運営される学校教育に限定される問題ではない。家庭や地域社会・教師の資質などのレベルのみではなく,教師と家庭がいかに信頼関係を保ちつつ子どもの教育にたずさわることができるのかということによって,教育効果は全く異なるものとなるであろう。学校というストイックな空間と,現代の消費社会はその共存がかなり難しくなってきている。教育基本法の改正によって教育が連動的に改善されると考えている者は稀であろう。教育基本法の趣旨に添ったいかなる教育改革が必要であって,それはいかにして実現可能であるかを考察することなくしては教育基本法の改正は実効性を持たないであろう。改善可能であることと改善困難であることが何であるのか,また全般的な教育機能の回復にとっていかなる措置が追加されなければならないかという課題に関して,あくまで学校教育・教科教育のレベルで建設的な考察を行うことを本稿の目的としたいのである。It let this half-century pass and we were discussed about the system of the law which was able to be done during the occupation after the conclusion of World War II. There was an objection to the formation process until it resulted in the level of one subject called social studies from revision of the constitution of Japan. However, the necessity for maintaining the self-control as a country which lost is also recognized strongly. The strength of the present parliamentary party brought about the change to a situation to problems with the revision of the constitution and the Fundamental Law of Education amendment problem. It became possible to change the postwar legal system of the will of ruling coalition itself. Soon, the Fundamental Law of Education amendment rode on the process of Diet deliberations. They thought, the Fundamental Law of Education affected the origin of Japanese social many problems, and break situations by revision of the Fundamental Law of Education. The governing party thought the present condition of all the problems in Japan in the "old Fundamental Law of Education". They had a sense of crisis especially strong against especially a child's character building and the fall of school records, and the Fundamental Law of Education amendment had the prospect that the situation could be overcome. I have an objection about whether amendment of the Fundamental Law of Education was really required. I think, how to educate children should be covered by not law but educational practice. However, I am not going to deny a new Fundamental Law of Education. I want to find the strategy for operating the new Fundamental Law of Education truly. It is clear that the power of home training or the education of a community, a teacher's character, etc. are important. I want to clarify about the following things further. 1) Translate the idea of a new education organic act into the level of a social studies education. 2) Showing which portion is concerned with a social studies education among ideas. 3) Showing what are possible to realize in social studies education. 4) Showing what are impossible to realize in a social studies education. 5) Showing needs for perfect realization for the idea of the Fundamental Law of Education.
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大阪教育大学紀要第IV 部門 55(1) 21-32 2006年9月筆者は先稿において「成長の出発点としての就学前期の生活経験の意義と課題」(『大阪教育大学紀要 第IV部門』所収)を考察した。就学前期はその取り組みの多様性において,「教育」的側面が必要充分に意識され実践されているとは言えないが,言語の発達や身体能力の発達,さらにはその後の子どもの発達可能性を決定すると言えるほど重要な時期であることは間違いないことである。就学以降の教育的営みが十分にその効果を発揮するためには,保護者や保育者・教育者が今にも増して子どもの就学前期の生活経験の意義を十分に理解することに努め,子どもの性質と環境の特質に合致した適切な支援と指導を行うことが求められるのである。本稿は上述の「成長の出発点としての就学前期の生活経験の意義と課題」の結論を受け,その考察対象を広げ,未成年期全般における子どもを取り巻く教育的環境をエコシステムとしてとらえることから子どもの発達支援にアプローチすることとしたい。一般に子どもは素質と環境によって発達すると考えられている。社会一般でも環境が子どもの発達に及ぼす影響についてはさまざまは形で日常的な教育的営みの中に取り入れられている。環境と子どもとの相互作用に関しても考慮されているケースは少なくない。このことは有効な教育的営為を生み出すことと思われるが,本稿ではその考え方に別の観点を組み入れることとしたい。それはすなわち子どもと外的環境との関係を単に異なる二者の相互関係として把握して考察するのではなく,環境というものを子ども自身をその中に含み込んだひとつのシステムとしてとらえるというアプローチである。教育に関わるさまざまな主体が現代社会の教育問題に有効な処方を見いだすことができないでいる現在,教育的環境や教育的営為をひとつの有機体的システムとしてとらえることによって,現在の教育的諸問題をもたらしている原因構造を究明し,その原因構造を改善するためにいずれの環境的要因を改善し,いずれの教育的営為の要因を改善すればよいのかという形で教育的諸問題解決のための処方を探るアプローチを提案することが本稿の目的である。その結果として,ひとつの教育的問題が解消されなくとも,問題解決のために追究対象とした諸要因の範囲を拡大し,あるいは別のシステム論的考察を採用することによって「教育」改革への歩みは着実に前進すると思われる。筆者はこのことを研究課題として位置づけ,取り組みを継続していきたいと考えている。
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大阪教育大学紀要第IV部門 53(2) 1-15 2005年2月本研究は「食」という対象を取り上げ,対象としての「食」,及び,行為としての「食」を総合的な経験として把握し,両者がその内に孕む教育的契機と教育的価値を究明しようとするものである。「衣食住」という言葉に示される通り,「食」とは極めて日常的な事物であり行為であるゆえにかえって対象化がされにくく,その含み込む要素の多様性ゆえに教育的考察の焦点化が難しい。「食」はあらゆる社会的事象と関係づけることが可能であるが,その関連性のままに「食」と取り組むことは,生命とは何か,環境とは何かというような壮大なテーマと直接に向き合うこととほとんど代わりがない。オープンエンドでの取り組みは焦点の拡散をもたらし,何を学んだのかがわからなくなりがちである。「食」の中の具体的事物から取り組みを始め,具体的事物との関わりにおいて追究させ,具体的事物への考察に収束させることによって,追究対象は明確化され,限定されるようになる。この難しさとこの可能性は,郷土教育の持つ性格に類似している。郷上の事物を対象にして追究し,その背後にある関連性を探り,再び郷上の考察へと戻るアプローチである。このような「郷上教育論的アプローチ」が「食」に関わる教育に求められると考える。学校教育においては,たとえば給食において子どもたちと「食」の具体的様相との接点がある。教育的指導の端緒はここにあると考えられるが,給食指導には教科指導と異なる指針の不分明さがあることを否めない。ある対象に関する知識・理解と,その知識・理解の獲得のプロセスで学ばれる態度・能力を想定することができる教科指導に比べると,給食指導における知識・理解と態度・能力との関係性は明確に意識されているとは言えない。態度・能力の指導の結末に,知識・理解の期待値を重ねているような不透明なところが少なからず見受けられるのである。給食指導の意義は,それに関わる教師の主観や指導のあり方によってさまざまなあり方によって実現の程度が異なってくるであろうことは当然である。また,社会科等の教科指導におけるのと同様に,給食指導においても知識・理解と態度・能力とは一個の人格の中に統一的に発展させられていかなくてはならないことは間違いない。そのために,給食指導においては何が期待できるのか,また期待される結果をもたらすためにはどのようなアプローチで給食指導を行うべきかが指導者に十分理解されていなければならない。本稿では「食」を考察することの意義と限界を示し,さらに「食」をいかなる教育活動に位置づけるかという点に関しての指針を示すことを目的としている。これは「食」に関する総合的学習の構想への序論として筆者の今後のアプローチのあり方を示すものでもある。筆者はこれまで「郷土」という概念を有効な「装置」として用いることで地域学習や郷土学習を考察してきた。このアプローチは「食」に関わる学習にも適用可能であると考えている。
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大阪教育大学紀要第IV 部門 53(1) 13-24 2004年9月本研究は, 情報処理能力の形成に関与する諸要因の抽出とそれら要囚の関連構造の解明をすることを目的とするものである。本稿はその第3稿として子どもの成長に関与する環境としての実体的環境及び情報的環境を取り上げ, その異質性と等質性, 関連性と相互補完性などの側面から子どもの成長空間としての意義と教育的配慮のあり方を考察することを予定していた。しかし, 総合的な情報的環境というものへの考察に取り組む以前に, 青少年の生活の中で急速に存在感を大きくしている「携帯電話」の価値と弊害に関して明確な評価軸を有しておく必要があることを痛切に感じるようになった。社会人を取り巻いている情報的環境と次世代を生きている子どもたちを取り巻いている情報的環境を同一のものとして捉えることは適切ではない。「携帯電話」が日常的なツールとして普及する以前に成人した40代以上の世代とその世代の子どもたちの世代には携帯電話というツールの存在感において非常に大きな乖離がある。これまでの歴史において経験のないいわゆる「ケータイ文化」 (携帯電話によるコミュニケーションによって成り立つ文化, 携帯電話の電話機能よりもむしろ携帯電話メールの送受信の占める位置が大きい) という環境の功罪をどのように捉えるか, そしてそれに対してどのように対処するかという視点な, くしては子どもの情報的環境について論じることはできないのである。それほど青少年にとっての携帯電話は日常的であり, かつ重みを持つものになっている。この問題に関して最も注意を払うべき点は,現代の我が国の情報的環境が急速な変化の途上にあるという点である。この変化は多くの有識者によって憂うべく事態として認識されているが, その行き着く先については十分な予想がなされているわけではない。技術開発はあらゆる分野において進展しており, 技術革新の成果が複合されて予期しなかったようなツールが世に出されるというよケな予測不可能な因子が多分にあるからである。しかし情報的環境の変化の末路を見極める前に, 現在進行中の変化への対応に心を砕くことが教育関係者を初めとする社会人の任務であろう。全ての変化が確定してからの対応は遅きに失するし, 社会的関心の高まりと民意が環境変化の方向性に対して全く無力であるとは思われない。子どもたちにとっての情報的環境を分析することと併せて, 環境をよりよい方向へ整えるための手だてを考慮することが急務であると考える。そこで本稿では, 携帯電話等の功罪をも視野入れた情報的環境の実態について考察を行った上で, 情報的環境 (見えの環境) を通して実体的環境を把捉する際に行われるべき「認識の補正」という作用の意義について論じている。
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大阪教育大学紀要第IV 部門 52(1) 49-63 2003年9月本研究は, 情報処理能力の形成に関与する諸要因の抽出とそれら要因の関連構造の解明をすることを目的とするものである。本稿はその第1稿として情報処理および情報活用能力というものをどのようにとらえるべきであるかを事例に即してミクロなレベルで考察し, 情報処理能力の分類と階層化を試みている。 昨年, 文部科学省は『情報教育の実践と学校の情報化~新「情報教育に関する手引」~』を公にしている。これは急速に進展する情報化社会に適応し, その社会の中で「生きる力」を育むべき子どもたちに対する情報教育の新たな指針である。情報化社会は生活利便性を高める側面がある一方で, 「影の部分」を同時に合わせ持っている。影の部分の影響を極力排除した有効な情報処理能力の育成は, 情報伝達・情報処理手段が急速な進展を見せる今日においては, 事態に応じた弾力的な対応が求められる領域である。今現在最も重要で有効であると信じられているひとつの能力は, 来年には人々の関心にのぼることもなくなるかも知れない。情報教育そのものだけでなく, 情報教育研究も新しい事態に対応すべく時々刻々進化発展していかなければならないはずである。本稿に書かれている事例は, 遠くない日に「古びた」ものとなることであろう。情報教育に関わって言えば, 「不易」の部分がどこにあるのかを見極めていくことも重要な課題のひとつである。This research aims to extraction and elucidation of various factors taking part in formation of information processing & activity literacy. In this text, I take up one case, and am doing micro consideration. It is how I should catch the information processing and the information use literacy. And, I am trying the classification and hierarchizing the information processing literacy. But one literacy believed to be the most important and effective now might come not to be going to rise to people's concerns next year. I think that the research of the information education should always correspond to the new ball game. It is necessary to do consideration always flexibly. Soon, I guess, the case written in this text is to become "Became antiquated". So, it is an important problem to ascertains the part of "Invariant" of the information education.
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大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 51(2) 321-335 2003年2月子どもを取り巻く現在の社会状況の変化は情報通信技術とその実際の運用実態の変化に象徴されている。こうした状況の中でメディアリテラシーの育成は, 子どもの諸能力育成の基盤として重視されるべきであろう。さらに今後はそれに加えて, 情報通信技術の進展によって生じてきた現在の諸条件を踏まえ, かつ, 今後起こりうる諸条件の変化を視野に入れた洞察が求められるはずである。子どもたちの経験の多くは第三者によって媒介されたものである。一義的には直接的な経験に基づく認識を基盤とした教育活動がもっとも重視されるべきであるが, メディアが媒介する経験の占める地位は今後さらに拡大を続けるであろう。したがって教育的営みにおいては, メディアによって媒介される経験を知識成立の前提とした対応のあり方を追究していかなければならない。メディア上を流れるデータ(情報)は主体によって受信され認識されない限りは, その価値が生じない。子どもが受信するデータ(情報)のうちメディアを通した間接的なものがますますその比重を増していく。国際的な交流が益々盛んとなる社会において子どもが獲得すべき知識内容もグローバル化せざるを得ない。必然的に学習内容も子どもの日常生活と疎遠なものが多く取り込まれてくることになるであろう。本稿に続く一連の研究では, 情報の受信とその受容がいかなる過程で成立するのかに関して考察している。とくに情報が経験の中のどのような要素と関連づけられて, 知識としていかに構造化されていくかという過程を記述することを最終的な目的としている。この記述はなかなか一般化することは難しいと思われる。それは情報の内容によって構造が多様であり得るからであり, それを獲得する子どもの経験も多様であるからである。一連の研究においては, 情報発信・情報伝達・情報受容の過程を詳細に分析し, 子どもが情報を知識として獲得していく過程の解明に資する考察を試みるものである。まず一般的な概念モデルを仮説的に設定した上で, 具体的事例による検証を積み重ね, さらにそれを普遍的なモデルとして提示するという手順を取りたい。本稿においてはメディアを媒介とする経験がもつ特徴を解明するために, 情報伝達過程における不可視な領域に注目し, その特徴を明らかにするとともに, メディアリテラシー育成における留意点を考察している。The change in a social situation now at the time of sorround the child is symbolized in the telecommunication technology and the change in the operation. It is necessary to value the promotion of media literacy as a base of various ability promotion of the child in such a situation. Additionally in the future, various conditions now at the time of caused it are based by the progress of the telecommunication technology, and the put insight is requested to view the change in various conditions which can happen in the future. Large of the children's experiences is one mediated by the third party. It is necessary to value the educational activity of which it is basic is recognition based on an immediate experience most. However, the experience that media mediate will keep expanding in addition in the future. Therefore, it is necessary to require the experience mediated by media in the education. In this text, I attempt to show the reception of information, the approval process of the receipt, and the structure of knowledge in the figure. I pay attention to invisibility area of the information transmission process area, clarify the feature, and am pointing out the note in the media literacy promotion.
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大阪教育大学紀要第V部門 51(1) 71-87 2002年9月本研究は, 現代社会において十分にその役割を発揮しうるような郷土教育の意義を見いだし, その実践を構想することを目的とするものである。まず, 郷土という概念の今日的な特質を明らかにした上で, 郷土における経験が知識の獲得や人間性の形成において担うことのできる機能がどのようなものであるかを究明し, さらに, そのような郷土の把握を前提に郷土教育がいかなる観点と方法によって構想されうるのかを考察し, 教育実践への提案を行うことを目指している。郷土教育に関わる考察から得られる知見は, 社会科をはじめとする諸教科の学習過程, さらには, 家庭や地域社会と学校の関わりの在り方を構想する際にも有効にはたらくものであると考える。本稿は研究の第1稿として, 郷土で生じる子どもの経験の要素を抽出することによって, 郷土がいかなる経験を提供する契機を有しているのか, 言い換えれば, 子どもの内面的な部分との関わりを想定しうる要素がどのようなものであるのかを考察している。郷土という場における経験はすべて何らかの形で人間形成的な作用を持っている。その作用を実質的に教育的価値あるものとして機能させるために, 郷土という場が事物, 事象, 人間, さらにはそれら諸関係の織りなす重層的な存在であること, 郷土は子どもたちから経験される限りにおいて意味づけられること, そこには所与のものとして正負の両側面が存在するのではなく, 経験される対象としての郷土と経験される対象としての郷土と経験する主体としての子どもとの関係性に着目し, どこにどのような働きかけを行うべきかを明らかにすることが必要であると考える。その具体的結実が実践の構想となるわけである。郷土教育的な考え方が社会科や生活科等の教科の一分野として実践されることのみに限定されるものとは考えていない。総合的な学習の時間や道徳の実践などの多くの領域においても, 郷土教育的な方法を採用することができるはずである。そこに意義があることは想像できるが, 実際にどのような形で実践が実現しうるかということを明らかにすることによってのみそれは実証的でありうる。郷土という概念または郷土教育という名称の使用の如何が問題であるのではない。教育的営みのあらゆる部分において, 郷土教育的な観点で考察し意味づけを行うことが可能であると考える。This research aims to find the meaning of the hometown education (Kyodo-kyoiku) which can demonstrate the role enough in the contemporary society, and to plan the practice. I aimed to investigate the function which can be borne in experience in the hometown forming the acquirement of knowledge and the human nature after clarifying a modern characteristic of the concept of hometown, to consider whether the hometown education can be achieved in addition by any viewpoint and the method on the assumption of the grasp of such a hometown, and to propose it to educational practice. I think that it works effectively when the finding obtained from the consideration related to the hometown education is a study process of various subjects including social studies and furthermore plans what should be of relations of the home, the regional society, and the school. This is the first paper of the research. In this paper,whether the opportunity when the hometown offers any experience is possessed by extracting the element of the experience of the child caused in the hometown or it has the element which brings any mental action in other words in considered. Children experience in the hometown. All of the experience have formed man some shape function. The following is necessary so that the action may function assuming that it is substantial and educational valuable. -The place of hometown is things, an event, man, and heavy layer existence that those various relations furthermore weave. -When it is experienced by children, the hometown can be meant. -Both sides of the positive and negative do not exist in the experience assuming that Tocoroazca. -Paying attention to the relation to the child as the experienced hometown targeted and the experienced subject is important. -It is clarified what approach to do to where of the children's experience. A concrete bringing forth of such cord consideration becomes a plan of practice. I don't think the limitation only to the practice of an idea the hometown education as one field of subjects of social studies and the life department, etc. A method the hometown educational should be able to be adopted in a lot of areas of the overall time to study and the practice of morality, etc. Only clarifying whether the practice of what shape can concretely be planned secures the proof of the research. It is not an essential problem whether to use the concept of hometown or the name of hometown education. Consideration which uses a viewpoint the hometown educational is effective in all educational phenomena.
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大阪教育大学紀要第V部門 50(2) 299-311 2002年1月日本では近年, インターネット利用人口が飛躍的に増加している。このような状況の下で, 子どもたちはインターネット活用能力を学ばなければならないが, 設備や指導者は未だもって十分とは言えない状況である。このような限られた条件の下で実現可能なレベルで, インターネットを利用した教育活動を構想し, 実践していくことが急務である。インターネットを利用した学習活動は, たとえばホームページの製作や電子メールの利用である。本稿においてはそうした学習活動を組織する際に考慮すべき指針となる事項を提示している。子どもたちが現実社会とインターネット社会の違いの比較を意識しながら, インターネット社会の特徴を認識することは価値があることであり, それは, 社会の構成員としてさらには国際入として必要な能力である。Recently population using Internet is rising rapidly, in Japan. With the present condition, children face the matter that they have to learn some literacy for usingit. However equipment ant the teacher for that are insufficient, so that the learning activity has not been generalized yet. It is unavoidable that the number of the school computer installation is limited by the convenience of their budget. It is the theme that the teacher have to plan valid instruction by using limited equipment in the present condition. The educational activity by Internet use means that making a homepage, sending an e-mail and something like these. In this paper, I intend to show some guides to realize for effective activity for Internet use in school. It is important that children could consious the difference of real socitety and an Internet society and recognize the charactor if each of them. It is also important that children start to do an active learning after they could understand a characterristic of the lnternet.
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大阪教育大学紀要第V部門 50(1) 151-160 2001年8月本研究は,メディア・リテラシー育成の視点からのメディア考察を行うものである。本稿はその第一報として,新聞メディア報道の特性をテーマとして具体的報道事例について考察する。このことは,第二報以降に考察するメディア・リテラシーの育成プロジェクトに深く関連するものである。子どもは,まず第一に情報の受信者となるわけであるが,将来的には情報の発信者,情報の媒介者となる可能性を持っている。メディアの実情に対する深い理解は,より良い情報受信者として子どもを育成するという観点ばかりではなく,より良い情報の発信者,情報の伝達者としての資質を育成するという観点からも考えられなければならない。メディア・リテラシーの育成に当たっては,情報発信者・媒介者・受信者という3者の立場すべてに関して,情報とどのように関わるかという態度と能力を向上させるという観点が重要になってくる。価値のある情報とは3者が共同して初めて生成しうるものなのである。In this research, I consider the media from the point of view of media-literacy-education. In this paper, I do treat of the character of the newspaper media. I take up two cases of the newspaper report, and examine it. I explained the characteristics (especially, limit) of the newspaper report. I propose the next three positions. 1. The sender of the information. 2. The transmission person of the information. 3. The receiving person of the information. First a child is the receiving person of the information. But, in the future they may become the sender of the information or the transmission person of the information. Therefore, children should know the weak point of the media well, and they should have the ability which makes up for that weak point. I thinks that good quality information is formed by 3 person's cooperating. Children should learn the method of the approach from all the positions to the information.
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大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 49(2) 173-183 2001年1月本稿では, 現代の社会環境, とくに情報環境とも呼ぶべき環境に目を向け, その特質を明らかにすることによって, 子どもの環境として欠落しているものは何かを考え, 子どもの心の健全な成長に資するものは何であるかを考察することとしたい。とくに本稿では, 生き物と接することによって得られるかけがえのない体験の意義を中心に考察することとしたい。In this paper, I have got attention to the social environment which means "informationalized society" Today, we're hard to have the experience to keep contact with living thing that needs for the process of childlen's growth Lack of this kind of experience is one of remarkable problem our society holds I think. Coming in close touch with small creatures would give children to realize the importance of the life I hope. I shall continue this report next time.
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大阪教育大学紀要第IV部門 49(1) 59-67 2000年8月本論文では今日的な子どものあり方に着目し, その特性を明らかにした上で, 情報化社会における新しい教育の方法論を探っていくこととしたい。本稿では, 特に, 第十五回中央教育審議会答申において強調されている, 「直接体験」の重視という点に焦点をあて, 現代社会における子どもの体験の特質と, 体験の機会の回復の方策について探ることとしたい。I intended to pay attention to modern children's ideal way in this thesis. I hope that I could describe and search for the following things: 1. The character of children's ideal way. 2. The methodology of a new education in the informationalized society. In this text, I would appropriate the focus the 15th Central Education Council report. And, I am trying to search for the strategy of the recovery of the characteristic of the experience of the children in the present age society and the experience at the chance.
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大阪教育大学紀要第V部門 44(1) 61-76 1995年9月平成元年の学習指導要領の改訂にともない, "新しい学力観"が提起されている。これは言うなれば,"学力観の転換"と言えるものである。さて, この"新しい学力観"ないしは"学力観の転換"の内実を見てみると, それは,「知識・理解・技能」などのような要素を重視する学力観から「関心・意欲・態度」などのような要素を重視する"学力観"への転回であると言うことができる。この学力観の転回にともなって, 今再び社会科学習における"基礎・基本"とはいかなるものであるのかが問われようとしている。本稿は, 社会科学習における"基礎・基本"とは, その子どもの生活に根ざし, 子どもの論理を支えるものとして機能し,さらには,その子どものその後の学習にとって重要なはたらきをなすものであるという見地から, 社会科学習における"基礎・基本"の概念を検討し,さらに, それがその後の子どもの社会認識の獲得にとって果たす意義を明らかにしようとするものである。このことについて本稿では, 小学校第4学年社会科単元『橿原バイパスと京奈和自動車道』1)の実践を取り上げ, "基礎・基本"に関わる問題を具体的に考察することを試みている。本稿はまず第一に, 対立概念としての"問題解決学習"と"基礎・基本"の関係の再検討を経た上で, 問題解決学習によって獲得されることが可能であるところの"基礎・基本"がいかなる位置付けにあるものであるかを明らかにし, 第二に,学習活動としての"直接的経験"(あるいは"生活")が,"基礎・基本"の獲得において果たす役割とその課題について検討することを通して上記の目的にアプローチするものである。A new outlook on scholastic attainmellts attracts attention in Japan now. It is an outlook on scholastic attainments by which the element such as "Concern, desire, and attitude" is valued. It is a problem what "Basic knowledge" of the social studies study is now because of the advocacy of anew outlook on scholastic attainments. I understand "Basic knowledge" in the social studies study as follows. 1. "Basic knowledge" deeply affects the life of the child and supports child'slogic. 2. "Basic knowledge" is an important base of the study of the child after that. I leave for such viewpoints and am working on the theme. I examine the relation between "Problem solving study" as the confrontation concept and "Basic knowledge" the first in this manuscript. And, the location of "Basic knowledge" approved by "Problem solving study" is clarified. Secondarily, I consider the role and the problem which "Immediate experience" accomplishes when "Basic knowledge" is formed. In this manuscript, I take up the practice of unit class of socia studies of the fourth elementary school year "Kashihara by-pass and KEINAWA car road". I can consider the problem which affects "Basic knowledge" by that concretely.
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大阪教育大学紀要第V部門 43(2) 213-229 1995年2月本稿は,統合教科に特有な教材構造と,そこで成立する子どもの認識のあり方を考察し,統合教科において子どもの認識の総合性が実現されるために求められる要因を明らかにすることを目的とするものである。ここでは,典型的な統合教科の一つとして我が国の「生活科」を取り上げ,その内容構成のあり方を考察することを通して,この目的にアプローチしている。生活科は,その特徴の一つとして,教科内容の総合的性格を謳っている。たしかに,生活科の特徴は内容の総合的性格のみにつくされるものではないが,生活科の総合的性格を明らかにすることは,それが子どもの日常的な生活空間の教育的意義を汲み取るための方法論を明らかにすることに連なるという点,さらに,中学年以降の学年段階において実施される諸教科授業の基盤としての意義を生活科が担っているという点で重要であると考えられる。本稿においては,とくに,従来の社会科および理科の両教科にわたる内容を含み込む授業単元において,"総合的"な内容がいかにして構成されるのか,また,子どもの中において"総合的"な認識が成立するためにはいかなる配慮が求められるのかを"具体性"および"直接性"の概念の検討を通して明らかにしている。This paper considers the next as a purpose.At firt,I clarify the characteristic structure of teaching-materials of"integrated subject",and I clarify the structure of children's recogintion which is concluded in"integrated subject".And then,I investigate some elements that are necessary for the children's synthetical recognition.I think the"SEIKATSU-KA(a subject related to children's life)"is a typical"integrated subject".Therefore,I consider the principle of composition of SEIKATSU-KA's contents.Especially,I take up a lesson unit of SEIKATSU-KA which contains contents that are related to both of"SHAKAI-KA(social studies)"and"RI-KA(science)".By analysing this lesson unit,I clarify come elements that are necessary for making children's recognition"synthetically".
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名古屋大学教育学部紀要 37(37) 335-352 1991年3月ドイツ基礎学校において実施されている「事実教授」を取り上げて、その教科内容の統合形態の2類型を考察した。飯島はカッツェンベルガーの『統合的事実教授』の理論を分析し、異質な領域にまたがる統合的事実教授単元の持つ意義と、教科構造志向の事実教授の枠組みにおける統合的事実教授の限界性を論じた。(B5版全18頁 335~352頁。的場正美と共著。飯島担当336~344頁)
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名古屋大学教育学部紀要 36(36) 451-465 1990年3月この授業の分析を、特に子どもの対象把握および表現手法という観点から行うことによって、社会認識における子どもの対象認識、あるいは、諸事象の関連づけ、さらには、他の子どもとのコミュニケーションを通しての認識の変化発展のあり方の追究のための基本的枠組みを提起している。(B5版全15頁 451~465頁。石田薫と共著。飯島担当 452~456頁)
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名古屋大学大学院教育学研究科『教育論叢』 (33) 1-14 1990年3月「郷土」の概念の分析を通して、子どもに身近な生活空間であるところの「郷土」の教育的意義を明らかにした。とくに昭和初期に地理教育の立場から郷土教育論を展開した三澤の理論における「郷土」概念を明らかにし、それが氏の郷土教育方法論にどのように具体化されているかを論じた。(B5版全14頁 1~14頁)
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名古屋大学教育学部紀要 35(35) 133-142 1989年3月本論文では子どもから疎遠な事象をとらえる3つの観点(時間的・空間的・心理的)を提示した上で、二つの授業実践例に基づいてとくに子どもから空間的に疎遠な事象に関する子どもの認識のあり方を実証的に論じている。
MISC
19書籍等出版物
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教育開発研究所 1996年1月「新しい観点からの郷土教育」及び「ふるさと教育の進め方」の項を単独で執筆。「新しい観点からの郷土教育」では、「郷土」あるいは「郷土教育」の概念を明らかにすることでその現代的意義を考察し、「ふるさと教育の進め方」では、内容的側面、方法的側面および目的的側面の3つのメルクマールからふるさと教育の実践的課題と可能性を論じている。
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ぎょうせい 1993年8月「郷土教育」及び「郷土学習」の項目を単独で執筆。 現代学校教育に関わる広範な問題を平易に解説している。担当した2つの項は、今世紀初頭の日本およびドイツにおける「郷土教育」および「郷土学習」について、歴史的経緯をふまえた上で解説している。
講演・口頭発表等
7共同研究・競争的資金等の研究課題
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日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(C) 2019年4月 - 2023年3月
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2012年4月 - 2015年3月
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1995年4月 - 1996年3月
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1993年4月 - 1995年3月
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1992年4月 - 1993年3月
その他
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1991年1月 - 1991年1月「授業諸要因の制御に関する比較教授学的実験研究」(昭和57、58年度科学研究費補助金による研究)の発展研究であり、「授業諸要因の関連構造にもとづく授業の構造分析Ⅱ」の研究成果に、その後実施された授業の事例分析と詳細な資料を加えてまとめたものである。(B5版全218頁。代表者日比裕全7名で共著。長年にわたる共同研究の集積のため担当部分抽出不可能であるため、参考までの記載にとどめる。主な飯島担当は授業記録部分)